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史跡 福岡城址へ③(福岡市)

史跡 福岡城址へ③(福岡市)_d0049152_0473518.jpg鉄御門跡
本丸から天守曲輪へ向かうための門。
要衝の門にふさわしく、敵の侵入を防ぐため幅が狭くなっている。
高く積まれた石垣の上に櫓や塀が張り巡らされ、上から攻撃できるようになっていた。
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埋門跡
(うずみもん)
ふだんは土壁で遮られていたそうです。

見学用に設置された階段を上がり、埋門の上を渡り大天守台へ。

史跡 福岡城址へ③(福岡市)_d0049152_8385869.jpg大天守台跡
東西6列、南北9列の礎石列があり、42個の礎石が残る。

大天守台跡は展望台になっています。
福岡市の街・福岡タワーが見える。水辺は大濠公園。L字型になっている石垣の上には天守櫓があった。
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史跡 福岡城址へ③(福岡市)_d0049152_1355317.jpg天守閣の有無については議論されています。
仮に存在したとすると、天守台の礎石や石垣の規模から5層の大天守閣が建っていたと推測されます。
天守閣の有無について
従来の通説では、正保3年(1646年)に作成された福岡城を描いた最古の絵図『福博惣絵図』には天守は描かれていないため、幕府への遠慮から天守は造築されなかったとされている。
近年になって、当時豊前国小倉藩主であった細川忠興が、彼の三男で次期藩主の忠利へ宛てた元和6年(1620年)3月16日付の手紙に「黒田長政が幕府に配慮し天守を取り壊すと語った」と天守の存在を窺わせる記述が発見されたことによって、天守があった可能性が示されている。
天守の解体を語ったとされるこの当時は、徳川氏の大坂城普請に諸大名が築城に駆り出されたことから、天守を解体し築城資材として投入することによって幕府の信任を得ようとしたと言う説も上がっている。
by nori_bura | 2014-11-05 13:40 | 旅行・福岡県
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