カテゴリ:関西ぶらり(和歌山)( 42 )

長保寺へ④(海南市)

史跡 紀州藩主徳川家墓所(藩主墓所としては日本最大規模)
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d0049152_10453587.jpg初代 頼宣卿
徳川家康公 第十子。
元和5年(1619)駿河より紀州入国。藩祖となる。
寛文11年(1671)1月10日没す。
享令70才。

寛文6年(1666)この地を訪れた紀州藩初代藩主d0049152_1046495.jpg徳川頼宣は、長保寺を紀州徳川家の菩提寺に定めた。

裏山にはこうゆう風景がずーっと続きます。
古い石段と石畳・石垣があり、薄暗いシーンとした所。
ゾーッとするので初代の廟所だけにしました。

頼宣以降の歴代藩主が眠っていますが、5代吉宗(後の8代将軍)・13代慶福(よしとみ、後の14代将軍家茂)の墓所は東京にあります。
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散策道に従い歩きました。
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by nori_bura | 2015-02-06 11:30 | 関西ぶらり(和歌山)

長保寺へ③(海南市)

d0049152_1085812.jpg国宝 多宝塔
南北朝時代の正平12年(1357)の建築。本瓦葺。

下重と上重の釣り合いがよく、均衡のとれた優美な純和様式の建物です。(内部の須弥壇は唐様。)
それぞれの面に三つずつ添えられた透かし彫りの蟇股(かえるまた)など、細部の意匠も見事なものです。

多宝塔の裏の道を上がると、重要文化財の鎮守堂があります。
そして紀州藩主徳川家墓所へ続きます。
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by nori_bura | 2015-02-05 11:20 | 関西ぶらり(和歌山)

長保寺へ②(海南市)

国宝 本堂 
鎌倉時代末期の延慶4年(1311)の建築。桁行5間、梁間5間、入母屋造。
方五間の形は、鎌倉時代に中国から伝わった禅宗様(唐様)に多く用いられたものであり、他にも組物など禅宗様の特徴を多く見られる。連子窓や妻壁の扠首(さす)など、和様の特徴も併せ持つ折衷様の中世仏堂です。
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本尊の釈迦如来像が納められている厨子も本堂と同時期のものです。
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by nori_bura | 2015-02-04 11:15 | 関西ぶらり(和歌山)

長保寺へ(海南市)

長保寺(ちょうほうじ)は、海南市下津町にある天台宗の仏教寺院。山号を慶徳山と称する。
平安時代中期の長保2年(1000)、一条天皇の勅願により、円仁(慈覚大師)の弟子の性空によって創建され、年号を取って「長保寺」と号したという。
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国宝 大門 南北朝時代の嘉慶2年(1388)の建築。
三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺。扁額は妙法院堯仁親王筆。
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大門を入る時に見上げると、左甚五郎の作と言われる鯉の彫り物があります。
大門をくぐり反対側には、虎と龍の彫り物があります。「登竜門をくぐれば、鯉が龍になるように、立身出世する」という中国の「登竜門」の故事に因んでいます。
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大門から本堂へ続く石段。
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左手の斜面にスイセンの花が咲いていました。
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by nori_bura | 2015-02-03 11:10 | 関西ぶらり(和歌山)

国宝 善福院釈迦堂(海南市)

カーナビに従って海南市下津町の天台宗のお寺を訪れました。梅田地区の住宅街の奥にあり、車1台分の道幅の所を対向車が来ないかドキドキして進みました。
善福院は、建保2年(1214)、栄西禅師により廣福寺五ヶ院の一つとして創建されて以来廣福禅寺という寺号であったが、明治初期の廃仏毀釈を経て現在の寺号に改められた。
安土桃山時代は加茂氏の菩提寺として栄え七堂伽藍を有していたが、釈迦堂が現存するのみです。
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国宝 釈迦堂 鎌倉時代の禅宗様建築を代表するものです。
桁行三間、梁間三間、一重裳階付、寄棟造、本瓦葺。堂内に安置する釈迦如来像に嘉暦2年(1327)の銘があり、釈迦堂の建立も同年頃とみられる。
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by nori_bura | 2015-02-02 10:50 | 関西ぶらり(和歌山)

上きしや (高野町高野山)

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d0049152_14174718.jpg高野町花坂の名物「やきもち」の元祖『上きしや』さんの高野山支店で、「やきもち」を購入しました。

前回購入の「きしや本舗」さんの物と見た目はよく似ていますが、こちらの方が柔らかいかな?
「きしや本舗」さんの方がペッタンコの気がしました。

今の所、前回「やきもち」購入の「きしや本舗」さんで食べた物の方が香ばしくて好きです。
でも、「上きしや」本店でも食べてみたい。

「やきもち」は、長く日持ちしない。
当日は美味しいけど、次の日には堅くなって来るので、お土産はお家用になりますね。
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by nori_bura | 2011-09-18 14:16 | 関西ぶらり(和歌山)

高野山散策メモ⑤

d0049152_14121444.jpg高野山内は、大地震・空襲から免れているのでしょうか?
とても古く立派な山門が目立ちます。

お寺の数がとても多く、宿坊もそれぞれ趣が感じられます。

d0049152_14125377.jpg20年位前にお世話になった宿坊はどこだったかな? すっかり忘れてしまいました。

ミシュランガイドで紹介され、高野山を訪れる外国人観光客が増えているそうで、確かに見かけましたね。

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刈萱堂(かるかやどう)
苅萱道心が出家し、実の子である石道丸とともに父子を名乗ることなく仏道修行に明けくれたお堂と伝えられています。



d0049152_14135510.jpg航空自衛隊の隊列が音楽と共に歩かれていました。
音楽が晴れがましく聞こえ、気が付きませんでしたが、殉職者の家族が、喉仏の骨を奥の院に納めに来られていたようです。
手を合わせお見送りすべきなのに失礼してしまいました。
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by nori_bura | 2011-09-17 14:10 | 関西ぶらり(和歌山)

高野山散策メモ④

d0049152_13574865.jpg総本山金剛峯寺
高野山真言宗の総本山です。

お寺の詳しくはこちら







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正門

金剛峯寺の建物の中で一番古い。
文禄2年(1593年)に再建されたものです。





d0049152_0474771.jpg天水桶(てんすいおけ)
正門をくぐって境内に入ると目に付きました。
檜皮葺(ひわだぶき)の屋根の上に桶が置かれています。
これは普段から雨水を溜めておき、火災が発生したときに、火の粉が飛
d0049152_13591585.jpgんで屋根が燃えあがらないように桶の水をまいて湿らし、少しでも類焼を食い止める役割を果たしました。


玄関の上の龍の彫り物は迫力があり印象的です。



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d0049152_1411986.jpgお寺の中も拝観しました。
(拝観料500円)

広間・仏間の襖絵、庭、台所も見ごたえがありました。
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by nori_bura | 2011-09-16 13:56 | 関西ぶらり(和歌山)

高野山散策メモ③

d0049152_13251987.jpg大門
高野山の入口にそびえ、一山の総門です。

車で高野山に上がって来る時にここを通過するので、一度じっくり見たいと思っていました。

五間三戸(さんこ)(正面桁行21.4m、梁間7.9m)の二階二層門で、高さは25.1m。(重要文化財に指定)
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現在の建物は、西暦1705年(宝永2年)に再建されたもので、両脇の金剛力士、阿形像(あぎょうぞう)は、江戸時代の仏師、康意(こうい)、吽形像(うんぎょうぞう)は、法橋運長(ほうきょううんちょう)による大作です。d0049152_1582454.jpg
大門に掲げられている二枚の柱聯(ちゅうれん)。
向って右には「不闕日日之影向」、左は「検知處々之遺跡」と各々一枚の板に彫られています。
これは「日々影向文」と呼ばれるものの一部で、その意味は『弘法大師は高野山を入定の地と定め、弥勒の浄土である都卒天の雲の上におりつつ、弘法大師のいわれのある旧跡や遺跡に日々影向する』という事だそうです。
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by nori_bura | 2011-09-15 13:24 | 関西ぶらり(和歌山)

高野山散策メモ②

d0049152_12182424.jpg檀上伽藍
御影堂(みえどう)
もとは、お大師さまの持仏堂として建立されたが、後に真如親王直筆の「弘法大師御影像」を奉安し、御影堂と名付けられた。桁行15.1メートル、梁間15.1メートルの向背付宝形(ほうぎょう)造りd0049152_12221425.jpgで、堂内外陣にはお大師さまの十大弟子像が掲げられている。

このお堂は高野山で最重要の聖域であり、限られた方しか堂内に入ることは許されなかったが、近年になって旧暦3月21日に執行される「旧正御影供」の前夜、御逮夜法会(おたいやほうえ)の後に外陣への一般参拝が許されるようになった。
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金堂
高野山御開創当時は講堂と呼ばれていた。平安時代半ばから、高野山の総本堂として重要な役割を果たしてきた。



d0049152_12282829.jpg准胝堂(じゅんていどう)
本尊の准胝観音は、弘法大師が得度の儀式を行う際の本尊として自ら造立されたと伝えられている。
この准胝観音は、伽藍が建立された当時、食堂に安置せられていたと伝えられている。
その後、天禄4年(973年)頃になって、この堂が建立され、移動された。現在の堂は明治16年(1883年)再建のもの。
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六角経蔵
鳥羽法皇の皇后・美福門院が、鳥羽法皇の菩提を弔うため、紺紙に金泥(きんでい)で浄写された一切経を納めるために建立された経蔵。
この紺紙金泥一切経は、美福門院がその持費として紀州荒川(現在の那賀郡桃山町付近)の庄を寄進された事に由来して、荒川経とも呼ばれるようになり、別名「荒川経蔵」という。
現在の建物は昭和9年(1934年)2月に再建されたもの。
経蔵の基壇(きだん)付近のところに把手がついており、回すことができる。
一回りすれば一切経を一通り読誦した功徳が得るといわれています。
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by nori_bura | 2011-09-14 12:08 | 関西ぶらり(和歌山)