カテゴリ:旅行・長崎県( 20 )

長崎さるく・県庁辺リ

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大波止交差点
スタート。






d0049152_2317017.jpgカステラが全国的に有名な文明堂。
その本家、発祥が長崎の文明堂総本店です。明治33年(1900年)に初代中川安五郎氏が創められました。

ビルの谷間に昔の雰囲気のままの建物が目立ちます。

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南蛮船来航の波止場跡(県庁第3別館前)→
元亀2年(1571)、ポルトガル船とポルトガル人がチャーターした唐船の合計2隻が初めて長崎港に入港しました。以後もポルトガル船は毎年のように来航し、長崎は国際貿易都市として急速に発展していきました。
当時、ここは長い岬の先端部分で、波止場がありました。天正10年(1582)、伊東マンショ・千々石ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチノ、4人の天正少年使節団がローマに向けて出航したのも、慶長19年(1614)、高山右近・内藤如安らキリシタンがマニラやマカオに追放されたのも、すべてこの波止場でした。d0049152_0441524.jpg
現在県庁がある場所は、
ポルトガル時代にはサン・パウロ教会、イエズス会本部があり、江戸時代には長崎奉行所西役所、幕末には海軍伝習所が設けられていた。明治時代になり、長崎会議所・長崎裁判所が置かれました。

県庁のすぐ横にある、商店街のアーチ。
可愛レトロなデザイン。
d0049152_074968.jpg商店街にある、奉(たてまつる)というお店。→
面白い長崎雑貨があります。d0049152_045410.jpg







6町時代の井戸だそうです。(県庁の斜め前)
1570年に長崎港開港。
開港とともに岬には新しく6つの町(大村町・島原町・平戸町・横瀬浦町・外浦町・分知(文知)町)がつくられた。
その時代でしょうか?
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by nori_bura | 2013-11-01 15:30 | 旅行・長崎県

長崎さるく・長崎港へ

長崎港まで出てみました。ここは、出島岸壁。「長崎水辺の森公園」の端にあたる。
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左手奥に女神大橋が見える。(南西方向)
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対岸には三菱重工の造船所関連の施設。
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稲佐山展望台~右端は旭大橋、長崎港ターミナル。
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岸壁から東を振り返ると風頭方向。
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長崎港はとても大きい。観光地長崎の玄関口として、客船の接岸が多いそうです。
また離島の多い長崎県の交通の要衝となっています。
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by nori_bura | 2013-10-31 14:25 | 旅行・長崎県

長崎ドライブ・車窓より

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d0049152_214101.jpg深堀から長崎市中心部までバスで戻る途中です。




(上)小ヶ倉から長崎湾を望む。




d0049152_2142141.jpg(中)(下)ヴィーナスウイング ながさき女神大橋道路。
長崎市南部・西部を最短距離で結ぶ橋。

夜はライトアップされて目立っています。
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by nori_bura | 2013-10-30 13:00 | 旅行・長崎県

長崎さるく・深堀城下町探訪③

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町角の恵比寿様

色鮮やかで、恵比寿様もとても印象的です。








浄土真宗本願寺派
亀登山円成寺
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五色の塀

珍しい石組みが見られます。





d0049152_13244310.jpg円成寺の梵鐘
(市指定有形文化財)
完保3年(1743)第6代住持寛嶺のとき、深堀村民から広く浄財を仰ぎ鋳工大隅小揚安山弥五左衛門藤原国久に鋳造させたものとされている。

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恵比寿神社


こちらも色鮮やかで賑やかです。
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by nori_bura | 2013-10-29 12:15 | 旅行・長崎県

長崎さるく・深堀城下町探訪②

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馬場崎経塚

菩提寺六代住職が、無病息災・世間安泰を祈念して、径2~3cmの平石に一石一字写経して埋め、碑を建てた。




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植木氏石塀

景観重要建造物







d0049152_125241100.jpg深堀貝塚遺跡資料館
深堀貝塚遺跡は、長崎半島及び西彼杵半島の西海岸に見られる砂丘遺跡を代表するものである。
土器・石器・古墳時代の箱式石棺・深堀鍋島藩石金庫など貴重な資料が展示されている。
d0049152_12561033.jpg深堀神社の鳥居(旧幸天宮石神門 こうてんぐうせきしんもん)
(市指定有形文化財)
この鳥居(石神門)は二代目で、初代の石神門は寛文3年(1663)、21代志摩守茂春が建てた。
その後、文政11年(1828)台風により大きな被害を受け、鳥居も倒壊。
天保8年(1837)、深堀地区では農作物が豊作となり復興したので、これを神慮によるものとして、深堀領の執事・氏子などが奮起し、現在の鳥居を建てた。
鳥居の柱には、深堀創設の由来が刻まれており、歴史上貴重である。
深堀の石塀群 (都市景観賞受賞)
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独特の風情の石塀のある街並みはとても印象的でした。

石塀More
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by nori_bura | 2013-10-28 12:00 | 旅行・長崎県

長崎さるく・深堀城下町探訪

長崎市唯一の城下町をさるく。(さるくマップの逆回りをしました。)
d0049152_8174571.jpg深堀陣屋跡碑
陣屋はお屋敷と呼ばれ、これを中心に城下町を形成されていた。城下町の入口には、東屋敷・中屋敷・西屋敷がなどがあり、さらに中・下級武士の屋敷が続き、その一番奥に陣屋があった。
陣屋には、御座やd0049152_8292999.jpg書院などの屋敷と馬場などがあった。

この地に深堀能仲が地頭として下向したのは、建長七年(1255)のこと。
深堀氏、本姓は三浦で、上総国深堀(千葉県大原町)の出身。
能仲が、承久の乱の勲功により戸八ヶ浦と呼ばれていたこの地に下って来ると、ここは領主の名をとって深堀と呼ばれた。

この先、五官の墓へ行く途中の道が難しくて迷いました。
メール便配達の人も迷っておられて、道を教えてもらいました。
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五官の墓
(市指定史跡)
呉五官は、中国南部節川県の出身で、朱印船貿易家として、慶長11年(1606)から元和2年(1616)にかけて、東埔寨(カンボジア)や交趾(コウチ=北ベトナム)などへ数回にわたって海外貿易を行った。
また、菩提寺の大檀越として、菩提寺3世一翁芳純和尚(慶長2年(1597)~正保4年(1647)在住)に帰依し、菩提寺再興に寄与した一人である。
この墓地は、寛永年間(1624~1643)に建立されたものと見られるが、中国人墓地として当時の様式をよく保存しており、歴史的価値が高い。d0049152_912358.jpg
曹洞宗金谷山 
菩提寺

創建時期は不詳。
深堀能仲が相模国三浦荘金谷村に祀っていた薬師仏などを譲り受け、同寺を建立したとされる。
寺入口の石門は、内円外方の造りで、安政7年(1860)29代領主茂精や檀家の寄付により再建されたもの。

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by nori_bura | 2013-10-27 11:35 | 旅行・長崎県

長崎さるく・山王神社へ②

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山王神社から南側に進むと
浦上街道の碑がある。






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浦上街道は、江戸時代中頃までは長崎における第一の街道で、日本二十六聖人やオランダ商館医ケンペルなど、多くの人々が往来しました。



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浦上街道の碑の西側の石畳の道には、山王神社二の鳥居の吹き飛ばされた左半分が横たわっています。
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被爆した鳥居
この鳥居は、1924年(大正13年)10月に山王神社の二の鳥居として建てられたが、
1945年(昭和20年)8月9日、御膳11時2分、原子爆弾の炸裂により、一方の柱をもぎとられてしまった。ここは、爆心地から南東へ約800mの距離にあったが、強烈な輻射熱線によって鳥居の上部が黒く焼かれ、また爆風によって一方の柱と上部の石材が破壊され、上部に残された笠木は風圧で反対方向にずれている。
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by nori_bura | 2013-10-26 10:20 | 旅行・長崎県

長崎さるく・山王神社へ

大学病院前電停からスタート。
詩人・福田須磨子宅跡
福田須磨子は23歳で被爆、自宅で両親と長姉を亡くしました。そのうえ衣類や食料まで何者かに盗まれることに。何もかも失い裏切られたという同じ日本人への怒り、避難するとき助けを求める叫び声を見捨てた自分への怒りと罪の意識。戦後数々の病に悩まされながらも創作活動を続け、昭和40年(1965年)「われなお生きてあり」で田村俊子賞を受賞。その後も「生きているだけでも原爆に対する抵抗だ」と病魔と闘い、52歳で死去した。
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この付近ははかつての路面電車のルート。原爆により付近を走行していた路面電車は大破し、乗客は座ったまま、乗務員はハンドルを握ったまま即死したそうです。
旧長崎医科大学附属医院付近の惨状
旧長崎医科大学附属医院は、爆心地から約400mに位置し、キャンパスとは約100mの谷を挟んで隣接していました。建物には迷彩を施し屋上には赤十字のマークが書かれていましたが、原爆に先立つ8月1日には米軍機の空襲を受け3名の死者を出しました。鉄筋コンクリート造り3階建ての建物は、爆風による倒壊を免れたものの内部は全焼、職員・学生892名、患者約200名が死亡しました。
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坂道を上がり、階段を上がり山王神社へ。2本の大クスが出迎えてくれます。
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山王神社の大クス(被爆クス)
山王神社は周辺を様々な樹木で囲まれており、その中で、この2本の大クスは神社境内入口にどっしりと根をおろしている。また、四方に伸びた2本の木の枝葉は、上部にいくにつれ複雑に絡み合いながら一つの深い緑陰をつくっている。
1945年(昭和20)8月9日、午前11時2分、原子爆弾の炸裂による強烈な熱線とすさまじい爆風のため、爆心地から南東約800mのこの神社の社殿は倒壊、隣接する社務所は全焼、そして、二の鳥居は片方の柱を失ってしまった。社殿を囲んでいた樹木は折損し、この2本の大クスも爆風により幹には大きな亀裂を生じ、枝葉が吹き飛ばされ丸裸となった。また、熱線により木肌を焼かれ、一時は枯死寸前を思わせたが、その後樹勢を盛りかえし、現在は長崎市の天然記念物に指定されている。
夏にはセミが鈴なりで泣くのが季節の風物詩。こずえを渡る風は、「日本の音百選」にも選ばれています。
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by nori_bura | 2013-10-25 10:00 | 旅行・長崎県

長崎の宿・JR九州ホテル長崎

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d0049152_8555888.jpg10日前に予約した長崎駅に一番近いホテル。
何処を拠点にするのか悩みましたが、結果的に正解でした。
一般的なビジネスホテルですが、しっかりした建物で、室外の物音がほぼ聞こえなかった。稲佐山の夜景が見えて綺麗でした。

朝食は、フロントと同じフロアで隣接のロイヤルホストで、ホテル専用メニューが800円で食べられます。

d0049152_8562019.jpg今流行りのエッグベネディクトセットを注文しました。
思っていたより濃厚なオランデーズソースとポーチドエッグがトローッとして、ほうれん草とハムとイングリッシュマフィンに絡めて・・・。
もう一つは、スモークサーモン・トマト・オニオンをサワークリームと野菜ドレッシングで。
食べ応えあり。

朝食メニュー
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by nori_bura | 2013-10-24 08:50 | 旅行・長崎県

長崎さるく・日本二十六聖人殉教地へ

10月8日、台風の接近で「長崎くんち」の殆どの行事は順延となりました。これは12年ぶりの事とか。小雨のうちにホテルから近い所に出かけました。
d0049152_1375559.jpg北瀬崎米蔵跡
享保4年にこの付近に米蔵が設置され、米の搬入・搬出が行われていました。
敷地は1561坪。内部には、水門3箇所・土蔵5棟・役人詰所1棟・番所1棟があり、米蔵預や蔵番等が年貢米の管理にあたりました。
今電車が走っている所は、当時は海だったようです。
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d0049152_13123111.jpg石畳の坂を上がると西坂公園。右手にはガウディを連想する塔を備えた建物。日本二十六聖人記念聖堂 聖フィリッポ教会といい、戦後殉教地である西坂に、二十六聖人に捧げる教会として建設されました。
設計者の今井兼次氏はアントニオ ガウディを日本にいち早く紹介した功績で知られており、この双塔はガウディの影響を受けているようです。双塔以外の部分はル コルビュジエの影響が感じられる物だそうです。(中には入りませんでした。)
日本二十六聖人の殉教碑
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豊臣秀吉の禁教令により京都や大阪でとらえられた外国人宣教師6人と子供を含む日本人20名は長崎に送られ、 慶長元年(1597)2月5日に、長崎西坂の地で処刑された。外国人宣教師達はキリストが処刑されたゴルゴダの丘に、 ここが似ている為この地で処刑されることを希望したと言われている。
 この事件の話は長崎に滞在していたルイス・フロイス神父によりヨーロッパに伝えられた。この悲しいできごとは 広くヨーロッパに知れることとなり、この報告を受けたローマ教皇は涙を流し悲しまれた。そして盛大な祭典をローマで行い、 26名の殉教者を聖人に列し「日本二十六聖人」と称せられた。

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by nori_bura | 2013-10-20 11:35 | 旅行・長崎県