人気ブログランキング |

長崎さるく・深堀城下町探訪

長崎市唯一の城下町をさるく。(さるくマップの逆回りをしました。)
d0049152_8174571.jpg深堀陣屋跡碑
陣屋はお屋敷と呼ばれ、これを中心に城下町を形成されていた。城下町の入口には、東屋敷・中屋敷・西屋敷がなどがあり、さらに中・下級武士の屋敷が続き、その一番奥に陣屋があった。
陣屋には、御座やd0049152_8292999.jpg書院などの屋敷と馬場などがあった。

この地に深堀能仲が地頭として下向したのは、建長七年(1255)のこと。
深堀氏、本姓は三浦で、上総国深堀(千葉県大原町)の出身。
能仲が、承久の乱の勲功により戸八ヶ浦と呼ばれていたこの地に下って来ると、ここは領主の名をとって深堀と呼ばれた。

この先、五官の墓へ行く途中の道が難しくて迷いました。
メール便配達の人も迷っておられて、道を教えてもらいました。
d0049152_843830.jpg
五官の墓
(市指定史跡)
呉五官は、中国南部節川県の出身で、朱印船貿易家として、慶長11年(1606)から元和2年(1616)にかけて、東埔寨(カンボジア)や交趾(コウチ=北ベトナム)などへ数回にわたって海外貿易を行った。
また、菩提寺の大檀越として、菩提寺3世一翁芳純和尚(慶長2年(1597)~正保4年(1647)在住)に帰依し、菩提寺再興に寄与した一人である。
この墓地は、寛永年間(1624~1643)に建立されたものと見られるが、中国人墓地として当時の様式をよく保存しており、歴史的価値が高い。d0049152_912358.jpg
曹洞宗金谷山 
菩提寺

創建時期は不詳。
深堀能仲が相模国三浦荘金谷村に祀っていた薬師仏などを譲り受け、同寺を建立したとされる。
寺入口の石門は、内円外方の造りで、安政7年(1860)29代領主茂精や檀家の寄付により再建されたもの。



d0049152_9284529.jpg十人義士の墓
長崎の武士たちが、筆頭町年寄りである高木彦右衛門の屋敷に討ち入り、彦右衛門とその家来を殺害した。長崎喧嘩騒動での(元禄13年(1700)12月)での切腹者12名、五島への流人9名の墓碑である。d0049152_94796.jpg
深堀鍋島家墓地
(市指定史跡)
江戸時代に佐賀藩家老職を勤めた深堀鍋島家(6千石)の歴代の墓地。
18代純賢(すみまさ)の時、佐賀藩の支配に属し、深掘姓を鍋島姓に改めた。
この墓地には、19代茂賢(しげまさ)以降の領主とその夫人や一族などの墓があり、長崎市唯一の旧藩主級の墓地として貴重である。
by nori_bura | 2013-10-27 11:35 | 旅行・長崎県
<< 長崎さるく・深堀城下町探訪② 長崎さるく・山王神社へ② >>